はじめまして。運営者の毒茄子です。
毒茄子どっとこむでは、生活・健康に関する情報や、医療関係者に役立つ情報などを配信していきます。
毒茄子は日本の過剰な医療に疑問を抱き、予防医学の普及を目指す看護師です。このサイトで伝えたいこととなぜ今の考えに行き着いたのかを、私の人生について書くことでお伝えしていきたいと思います。
目次
簡単な自己紹介
・生息地・出没スポット:東京近郊
・ざっくり職歴:システムエンジニア→介護士→看護師→フリーランス
・目指していること:予防医学や健康知識の普及
挫折①:生まれながらの負け組、諦めから始まる幼少期
”私”は埼玉県で生まれました。
売れない翻訳家の父親、売れない小説家の母親から生まれた二人姉妹の次女です。昭和の終わり頃に生まれ、大人はバブルの真っ只中でしたが、私の家は貧乏でした。食費が足りずに質屋に物を売ったり、幼稚園までは家にテレビがなかったり、クリスマスにサンタさんが来たことがない、そんな家でした。物心ついた頃から「あ、うちは他の家と違うんだ」とひしひしと感じていたので、親にお菓子をねだることすらできませんでした。
定職に就く気配のない両親は、よく夫婦喧嘩をしていました。父親はお酒を飲んでいるか、怒鳴っているか。母親はよくヒステリーを起こしていました。
そんな両親の元に生まれ、愛情も教育もほとんど受けられない子供だった私は、当然根暗なコミュ障でした。
転機①:高校生、働く喜びを知る
中3の終わり頃、両親が離婚しました。母、姉と3人での新生活と高校進学。
「一刻も早く働きたい!!!!!!!!!」
高1の私は切実に思っていました。でもコミュ障なので、人前に出ることが恐い。
最初は工場の食品詰めや郵便局の年賀状の仕分けなど、なんとか自分でもできる仕事を探してバイトをしました。高1の終わり頃、長期のバイトとしてスーパーで働き始めました。
「人前に出るのが怖いので、裏方にしてください!!!!」
女の子はレジが基本という中、副店長さんに頼み込んで寿司・惣菜部門に配属してもらいました。
そこで一生懸命働きました。そしたら社員さん、パートさんがみんな可愛がってくれました。バイト先で初めて彼氏もできました。
「働くって、幸せだ・・・・」
家は相変わらず貧乏だったので、高校卒業後の進学は絶望的。高卒で働く場合に備えて商業高校に進学し、頑張って勉強してそこそこ上位の成績を維持しながら、「やりたいことはないけど、何かスキルを得るために専門学校には行きたいな」と思いたくさんバイトをして貯金をしていました。
挫折②:システムエンジニアとして就職、うつ病になる
人と話せるようにはなったものの、相変わらずのマイナス思考。
「エンジニア系の仕事なら、人とあまり話さなくても良さそう」
という後ろ向きな理由で、商業高校を卒業後にIT系の専門学校へ進学。高校で勉強を頑張ったので、学校推薦で学費をかなり安くしてもらえました。
専門学校でも勉強とバイトを両立し、コツコツ頑張りました。IT系の国家資格に合格し、就職先もすんなり決まりました。卒業式で学年代表で表彰されました。
20歳でIT企業に就職。周りは男性ばかり、大卒がほとんどという環境でした。
「馴染めない」「仕事つらい」「死ぬ」
システムエンジニアといえば残業。覚悟はしていましたが、やはり仕事はそれなりに忙しかったです。職場と家の往復、職場の人との会話は少なく、友達も少ない。徐々に仕事に行くのが辛くなり、夜眠れなくなっていきました。何より満員電車での通勤が辛く、朝の出勤だけで気力を使い果たしていました。悩みを打ち明けられる相手がいなかった私は、一人になれる家のお風呂で声を殺して泣いていました。そして段々堪えきれる時間が短くなり、帰りの電車で泣くようになり、職場のトイレで泣くようになり、ついに自分のデスクで号泣してしまいました。驚いた上司にその場で早退させてもらい、その足で心療内科に行きました。
「まぁ、うつ病だね。とりあえず仕事行くのやめなさい」
診断書を書かれ、休職することになりました。
当時同棲している彼氏がいたんですが、きちんと別れ話もしないまま家を出ました。友達がいないから、恋人をつくる。嫌われて一人になるのが怖いから、いい子を演じる。そんなお付き合いが、病んでいく自分を加速させていたことに気づいたからです。
仕事を辞めたら楽になった
天井を眺めて泣いているだけで一日が終わったり、自傷したり睡眠薬を大量に服用したりしながらも、結局死なかかった。数ヶ月の休職を経て復職し、なんとか抗うつ薬を飲まなくてもいい状態まで持ち直しました。でも通院が終わったとき、ふと思いました。
「もう仕事、辞めてもいいかな」
24歳で退職しました。
休職したときはすごく孤独を感じていたのですが、休職期間中に新しい友達や彼氏(今の夫)ができ、大きな救いになりました。辞めたらすっと心が楽になりました。
転機②:介護をやってみて、患者さんとの関わりに喜びを見出す
「なんでもいいから、挑戦してみよう」
当時の私は、正社員か派遣かバイトか、という働き方しか知りませんでした。就職難でアピール下手。転職は決まらずフリーターでバイトを掛け持ちしました。苦手な接客に挑戦しましたが、仕事の覚えが遅く話すのが下手。楽しさはありましたが、「やっぱり向いてない・・・」と感じました。
そんなとき、近所の病院の求人に目が留まりました。
”未経験可、ヘルパーさん募集”
「絶対、自分には無理だろうな」
そう思いながらも、
「そもそも挫折しかしてないんだから、失うものは何もない」
と思い、介護に挑戦することにしました。ダメだったら、違う道を探せばいい。うつ病になっても、死ななかったし。
ありがとうは、魔法の言葉
「くさい!!!!!!!!!!!」
介護の大変さは色々とありますが、最初につまづいたのは排泄物の臭い。そして動けない患者さんを寝返りをさせたり、車椅子に移動させたりと、肉体的にも重労働。職業病が腰痛というのも納得です。そして給料が安い。とても安い。
でも、
「ありがとう」
と笑顔を向けてくれるたくさんの患者さんに出会いました。
「いい仕事だなぁ」「自分に向いているかもしれない」
そう思い始めました。
転機③:看護師、天職との出会い
何歳からでも、看護師は目指せる
「看護師になれば?」
25歳のとき、職場の看護師さんに言われました。
「え、今から看護師になれるの?そもそもどうやって看護師になるの?」
専門学校に行けば看護師になれる。しかも、40代でも50代でも入学する人がいる。と職場の看護師さんに教えてもらいました。
「看護師になりたい」
何か湧き上がるものがありました。
なぜかトントン拍子でどうにかなった
看護師さんから進学をすすめられたのは1月。看護学校の次年度の受験申し込みが終わるか終わらないかくらいの時期でした。受験勉強もしていないし、受かる可能性はものすごく低い。でも、来年まで待てない。試しにどこか受けてみようと思い、滑り込みで2月に募集をしていた准看護師の学校に出願しました。就職難の影響で、約30人募集のところに受験者は200人強。合格は絶望的でした。
でも、今でも不思議なのですが、なぜか合格しました。
大変だったけど、それ以上に楽しかった
准看護師と看護師。少し違う職業なのですがここでは細かい説明は割愛します。
とにもかくにも、准看護師の学校に入学できた私は、2年間ヘルパーとして病院で働きながら准看護師の資格を取りました。そして、卒業してすぐに看護師の学校に入学し、そこから3年間、准看護師として働きながら看護師の資格を取りました。
5年間の勤労学生生活。この間に結婚もしました。
早朝から働き、学校のあとの夕方も働き、夜勤もしました。料理も作ってました。
それでもスキマ時間でコツコツ勉強し、後半の3年間の学校生活では、模試で常に学年1位か2位を取れるようになっていました。
周りからすごく頑張ったねとか大変だったでしょとか言われますが、楽しかったんです。
天職に巡り会えたと思いました。
そしてふと、応援してくれる人がたくさんいることに気がつきました。
「人ってこんなに優しいんだ。あったかいんだ」
「もう、一人じゃないんだ」
一生看護師をやろう。
これからの人生は、支えてくれた人たちに恩返しをしよう。
そう思いました。
転機④:日本の医療への疑問と葛藤、退職
介護も合わせていくつかの病院で計6年ほど働きましたが、ずっと違和感を感じていることがありました。
「この治療に、何の意味があるんだろう」
多くの病院で、回復の見込めない高齢者に点滴や輸血、酸素、チューブでの栄養注入などの治療が行われています。心臓は動いているけれど、生きているけれど・・・。
「”人間として”果たしてこの人は生きているのだろうか」
生と死について、たくさん本を読みました。
高齢者の病気の多くは生活習慣の積み重ねと、加齢による細胞の劣化によるもの。
「高齢者の病気の多くは、これといった原因がある”病気”ではなく、”老化”なのではないか」
「人は必ず死ぬのに、まるで死ぬことが罪かのように捉えられている」
「多くの人が自分の健康を、人任せにしすぎている」
「なぜ、いつか死ぬことに向き合えていない人がこんなにも多いのか」
疑問と葛藤がだんだんと大きくなっていきました。
そして決意しました。
「病院は、やめよう」
過剰な医療に、これ以上加担したくない。人の健康のため、幸せな人生のため、何か他にできることを探そうと思いました。
予防医学:今、たどり着いた答えとこれからのこと
湧き上がる葛藤から、一つの結論にたどり着きました。
「予防医学や健康知識の普及」
手遅れになる前に、働く世代から、一人ひとりが知識をつける。
今をきちんと生きる。
自分の人生に、自分の健康に、責任を持つ。
限界を超えて生かされている患者さんは、つらいです。
それを見ている家族も、つらいです。
その患者さんの援助をする医療従事者も、つらいです。
働く世代が払っているお金と国のお金で、日本の医療は成り立っています。
限界を超えても治療をする日本の医療費は、ものすごく赤字です。
日本で生きている限り、誰にとっても他人事ではないんです。
たくさんの人に、それを知ってほしい。
そして自分や家族の心と体に向き合ってほしい。
幸せに生きてほしい。
いつか死ぬことを受け入れて、人生に満足して、死んでいってほしい。
まとめ:このサイト、”毒茄子”が生まれた理由
「延命反対」
この言葉だけを言うと、理解されないことがあるかもしれないと思いました。
それでも勇気を出して、声を出して伝えたい。毒茄子は”私”の仮面です。
「必要以上の治療はやめて、生を全うできますように。納得のいく人生を送れますように」
それが私の願いです。このサイトを通して、読んだ人にとって何か一つでも人生にプラスになることがあれば、それが”私”の大きな喜びです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。